最近、「わたしAさん嫌いなんだよね~」とか「俺Bのこと嫌いでさ~」のような会話にぎょっとした経験がありまして、これは私だけの感覚なのかもしれないけど
自分がどんな優れた人間だからって、その誰かをあっけらかんと「嫌い」と言えるのか?と憤ってしまうのです
そもそも、人権のある人に対して、なぜ「好き」はいいとしても「嫌い」と言えるのか
「好き」もえこひいきの「好き」なら尊敬の「好き」とはまた違うなと悩んでしまいますが
「嫌い」はもはや、どんなに「嫌い」でもそれを口に出すべきではないし、ましてやSNSやネット上に書くべきものではない
そもそも、「嫌い」だとしてそこまで嫌える要素を並べ立てられるのか?
「なんか嫌い」「なんか無理」「うざい」その程度なら原因はきっと嫌う人自身にあるはずで
コンプレックスの強い部分に、たまたまその嫌った相手が実は心の奥底で羨ましかったり、到底叶わないと諦めからの嫌悪だったり…
そんなんテメーで解決しやがれ!と片付けたいところだけど、実はそれは大部分、社会のせいなのでテメーで解決できないことばかり、と理解出来たりもします(!)
今の世の中、お金が全てで、権力があるものが上に行く、より自分をうまく魅せれる人が先に行く、そこに追いつけない焦燥感は自分をも見失う凄まじい孤独で
その孤独、無理に、やたらに、誰かに汚い言葉でぶつけて傷つけないでほしいのです
じゃあどうするか?「社会」のせいにする、それが適切です
お金がないのも資本主義をうたって新自由主義の自己責任風潮をヨシとする社会のせいで、あなたのせいじゃない
私たちは平等に扱われ、平等に機会を得られるべきなのに、富めるものにしか救いの手がない社会のせいで、あなたのせいじゃない
賃金が上がらないのも、仕事が見つからないのもやっぱり社会のせいであなたのせいじゃない
言ってしまえば、可愛くないのもかっこよくないのも、美の基準を暗黙に定めている社会のせいであなたのせいじゃない、可愛くなくてもかっこよくなくても本当は何も関係ない
すべては、人が生きるのに人に優しくない社会をつくりあげる社会のせいで、それを構成する人のせい
だからひとりでも、同じ時代を生きる同じ人間に生きやすさという優しさを分けてあげるべきで、寄ってたかって首を絞めては世界はそれこそ終わりに向かう
人ひとりを嫌う時間や苦しめる時間があるならば、同じ時間で教養を身につけて
誰も考えだにしなかったみんなが生きやすくて暮らしやすい政策を考えるとか、もっと崇高にやれることはあるはずで
でもそれに気付くには時間がかかったり、感情がうまく収まらなかったりする
でもそんな時も、どうか「嫌い」という決定的で後戻りできない言葉は使わないで、代わりに「苦手」と言ってほしい
そうすれば、あなたが誰かを「苦手」なのも誰かがあなたを「苦手」なのも自由で、それはいつでも「なんかいいと思えてきた」に代えられるから
「嫌い」には発展がない、けれど人は成長して変わっていくものだから、絶対に使ってはいけない、私はそう思う
byへらを